1968(昭和48)年1月に、当院を開設し、今日まで56年間院長として、小動物の臨床の他に様々なことに取り組んできました。すでに後期高齢者となっており、けじめをつけるため昨年末で、院長を交代することに決めました。
今年2025(令和7)年から、当院で長年勤務してくれた土屋清子先生が、院長になりました。病院名を変えず全ての業務を引き継いでくれますので、今まで同様、よろしくお願い申し上げます。
回顧録
1960(昭和S35)年4月、日大農獣医学部・獣医学科入学。同級生の一人が、世界基督教統一神霊協会(現、世界平和統一家庭連合)(統一教会)が主催した「原理研究会」に参加したので、翻意させようとしたが失敗した。
S36年冬、谷川岳の天神平から上越線の土合駅まで、スキーで林間滑降(バックカントリー)を行った
S38年夏、堀江健一さんのヨット教室に参加し、セーリングにはまり、現在はホビー16で楽しんでいる
S39年、獣医師免許取得。日大医学部板橋病院の検査室で、臨床検査の研修
S40年4月。日大農獣医学部の家畜病院で、臨床の他に犬猫の血液検査データの取集
S43年1月、当院を開設。町田乗馬クラブに入会し、乗馬開始
S49年夏、御殿場から山中湖往復をレンタルホースでキャンプしながらトレッキング(行軍)した。最終日は、土砂振りの豪雨で、多摩川の土手が決壊し沢山の家屋が流された
S52年、アメリカ動物病院協会(AAHA)のハワイ大会に初参加。我が国の獣医学が、数十年の遅れを痛切に感じた。さらに、動物福祉の認識がほぼ全員が同じだったことに驚いた
S58年、任意団体の日本動物病院協会(JAHA)の設立に参画して理事となり、アメリカの獣医師を講師として招いて国際セミナーの開催を年に数回行うことにした
S60年、ハワイ大学のDr.ミヤハラからHAB(ヒューマン・アニマル・ボンド=人と動物の絆)のレクチャーを受けた
S61年、JAHAは、CAPP活動を開始し、最初の施設訪問先の横浜市の「さくら苑」に、飼育していたグレートデンとチワワ2頭を伴って参加した
平成H元年、モナコで開催されたIAHAIO(人と動物の相互作用に関する国際連合)の大会に初参加。各国のHAB関連の研究発表やデモンストレーシを見聞した、。ここで、アメリカのドッグ・トレーニング・インストラクター協会の会長テリー・ライアン氏と面談した
H2年、ハワイのDr.フルモトの紹介で、公園で行われている犬のしつけ方教室を見学した。その後別な場所で、飼い主が訓練した犬と一緒のコンテストを見せてもらった
H10年4月、予期していなかったJAHAの会長(任期2年)になった。
H11年7月、当院で「愛犬のしつけ方教室」を開始した。夏休みの早朝に、小学4年生から高校生までのジュニアクラスも行った
H11年12月、「動物の保護及び管理に関する法律」がやっと改正され「動物の愛護及び管理に関する法律」(動愛法)と改称された。「動物の法律を考える連絡会」(連絡会)に所属してこの改正に関わってきた
H12年7月、南多摩獣医師会のモンゴル訪問に参加し、ゾドによる家畜の大量死、ミニナーダム(少年騎手による競馬、、モンゴル相撲、馬頭琴と琴及びホーミーなどのモンゴル音楽、馬乳酒など)ゲル宿泊、乗馬トレッキング、降雨後三日で灰褐色の世界が緑の草原に一気に変わったこと、5種の家畜とモンゴル獣医界の実状などを知った
H12年12月、改正された動愛法が施行されたので連絡会を解散し、新たに「動物との共生を考える連絡会」(動共連)を設立し、以降5年ごとの改正に向けて活動することになり、その代表になった。ペット法学会が設立されたのですぐに加盟した。その数年後、加盟する弁護士からの獣医療過誤問題の相談を受けることになった
H13年9月11日、ニューヨークのWTCに飛行機が突っ込んだことを、ブラジルのサンパウロで知った。リオデジャネイロでのIAHAIO大会に参加の前に、イグアスの滝をブラジル側からとアルゼンチン側から見るために国境を通過した際に、国境警備の兵士が日本の平和憲法を知っていたことにびっくりした
H15年4月、5月、三重県の上げ馬神事での馬虐待問題の取組みを開始し、以後毎年調査することにした
H22年、小笠原の父島と母島でのノネコ対策のために東京都獣医師会の小笠原動物派遣診療団に参加することにした。事前の9月に小笠原に行った際の帰路、台風が追い付き追い越したので大荒れの船内で重傷者が出て、三宅島の自衛隊のヘリコプターでレスキューされた。海猿の救助活動の本番をつぶさに直視できた。島で捕獲されたノネコを馴らしてから里親に譲渡する活動を続けている
H28年4月、災害時のペット救護の組織「一般財団法人・ペット災害対策推進協会」(災対協)を激しく批判していた私が、不本意にも関わらずこの協会の理事長にさせられた。
令和R元年12月31日、災対協を解散した。
R4年2月、視力低下で、自動車運転免許証の更新できず、強制的免許返納と相成り、代わりに「運転経歴証明書」なるものを交付してもらった。齢80歳になったので、獣医療過誤の相談を終了した
R5年10,11,12月、三重県桑名市の多度大社で「多度大社の上げ馬神事の在り方検討会」に外部委員として参加。馬に対する暴力(虐待)を無くすことになった
R6年7月30日、多度大社で「多度大社の上げ馬神事の今後の在り方についての検討会」に参加し、提案した。
※ 日本の攻撃で太平洋戦争が始まって間もなく1942(昭和17)年2月に中国上海で誕生した私は、超希少な戦中派で、中国語で親や家族を探す人と同世代。父が戦争で、脇腹と腕に貫通銃創痕あるが復員し、バラバラだった家族全員が一つ屋根の下で暮らせるようになった。物不足や食糧難などを体験したが、順調に成長し獣医師になって様々なことができたことは、スタッフの存在と家族の理解があったから可能だったことに感謝するしかない